エジプトの遺跡ガイド   アマルナの新説  
 アマルナの地図                         

当然ここにいる大部分はアマルナ好きですし、近々アマルナに行く予定の人もいるとのことなので実際にアマルナ行った時の楽しみ方について話すことにします。
と言っても、実際のところアマルナは神殿などの巨大建造物というものは残っておらず遺跡らしい遺跡というのが墳墓だけなのでここではそれについて少し話をしたいと思います。

貴族の墓
(1号墓〜25墓が知られていますが、そのほぼ同数の墓が同じ地域にありますが、それらは、アルファベットを加えた形で表記されています。例 3a墓 25a墓)を含むアマルナの遺跡を見るうえで、知っておきたいのはアクエンアテンが信仰したアテン神の名前で、これを知っておくと倍増するかどうかはわかりませんが、楽しむ方法が増えます。
このアテン神、他の神々と違いカルトゥーシュに書かれています。王と同じように2つの名前を持ったアテン神ですが、アクエンアテンの治世9〜10年を境に前期名と後期名に分けられています。
私はヒエログリフはわからないと言う人もいるかもしれませんが見分けるのは非常に簡単です。
アテン神のカルトゥーシュの中に鳥が書かれているのが前期名、ないものが後期名です。
(ちなみに前期名があるアイの墓は完成度60%程度ですが、後期名のある墓がほぼ完成しているなど必ず古い順に完成してはいません。)

(アテン神 前期名)
さて、アマルナの貴族の墓をマニアックに見る上でまず注目すべきところは、王と王妃の並び方で、他の時代、たとえばルクソール神殿やアブシンベル神殿でのラムセス2世と王妃ネフェルタリなどがよい例なのですが、王・王妃の順で描かれるのが普通です。
アマルナ時代も先ほど述べたアテン神前期名がある貴族の墓では、この順を守っている(例:3号墓)のですが、後期名のある墓になると、王と王妃が重なって描かれているものが出てきます。(例:1号墓、2号墓、6号墓)単に技法の問題で片付けていいかというと、
これがなかなか難しいです。
序列ということは古代エジプトの絵画を描くうえで非常に重要な意味があるからです。
ですから、むしろ王妃の地位が王に近づいたと考えた方がいいかもしれません。
もうひとつ、アクエンアテン、ツタンカーメン・・・スメンクカラーをとりあえず挟むとスメンクカラー、ツタンカーメン、アイと続くアマルナ時代を抹殺したとされるホルエムヘブ、この王の王妃というのがネフェルティティの妹ムトネジュメトなのですが、
このムトネジュメト、アマルナの貴族の墓に王族の一員としてレリーフに登場するのですが、これが前期名がある墓に限られます。
(なお、2012年出版の河合望氏は、著書『ツタンカーメン 少年王の謎』で、ネフェルティティの妹の名は、ムウトベレトでホルエムヘブ王妃と同一人物ではないとしている。
ただし、24号墓の所有者パァアテネムヘブがホルエムヘブならば、ホルエムヘブ同様改名の可能性もあり、河合氏の説の通り完全に否定してもよいかは疑問である。
また、この名前の違いについては、同一人物とみなしてよいという意見もある コンプリートシリーズ・全系図付エジプト歴代王朝史
参照
彼女についてもう少し話すと登場する時必ず2人の小人を伴っています。
このうちの1人が後で話すスメンクカラーではないかと考えている人もいるようです。
(単なる従者という見方が多いようですが、彼女の息子で後のスメンクカラーとする場合は父親はアメンヘテプ3世とされています。)
パッケージツアーでは行かないと思いますが、アイの墓(アマルナ25号墓)などで見ることができます。
通常のツアーで行く北の墳墓群では6号墓パネヘシの墓で見ることができるはずです。
この6号墓に行った場合に、是非観てもらいたいものは、入口脇柱のレリーフで、
王とともに王妃がアテフ冠(テフテフ冠)を被っているという珍しいレリーフです。)



次におそらくアマルナで皆さんが行くであろう4号墓、これはメリラーという人の墓ですが、地球の歩き方などガイドブックなどでも紹介されているきれいなレリーフがあります。


ややマニアック的にこの墓を楽しむには王・王妃の後ろに並ぶ王女たちを注目してください。
ここに4人の王女たちがいるのですが、その中の1人アクエンアテンの4女ネフェルネフェルアテンタァシェリト、ネフェルネフェルアテンJr風の名前なのですが、彼女の碑文が大変興味深いです。
王女たちの碑文は決まり文句的に『偉大なる王妃ネフェルティティから生まれし王女〜』と書かれているのですが、ここではなんと偉大なる王妃ネフェルティティから生まれし王妃ネフェルネフェルアテンタァシェリトと書かれています。


専門家は単なる間違いと片付けているのですけど、実はこの壁の反対側の壁にも王女たちが描かれているます。
ここには、なぜかネフェルネフェルアテンタァシェリトだけが名前が書かれています。
もちろんこっちには王女ネフェルネフェルアテンタァシェリトとなっていますけども。

貴族の墓についての最後ですが、皆さんが参加するパッケージツアーではおそらく行かないと思いますがアマルナ時代に興味を持つ者にとっては非常に重要な貴族の墓を少しだけ紹介します。
もちろん後に王になるアイの墓も重要なのですが、それとは別に2つ紹介しておきます。
1つはフヤと言う人の墓で、アクエンアテンのお母さんのティイ王妃が描かれています。
これの何が重要かというとティイ王妃がアマルナに来ていたのではという証拠と考えられているからです。
ここの説明を始めると時間がまったく足りないので今回はできませんが
(KV35で発見された多くのミイラのうちの女性ミイラ1体が、ツタンカーメン王墓から見つかったティイ王妃の毛髪と書かれた遺物とミイラの毛髪が検査の結果同じということを根拠に、ティイ王妃の可能性が高いとされています。
このことからティイ王妃はルクソール、おそらく王妃のシャブティが見つかったアメンヘテプ3世王墓に再埋葬されたと考えることもできます。
一方アマルナのアクエンアテン王墓からティイ王妃の石棺の破片が見つかっており、更にフヤの墓の壁面装飾でティイ王妃が描かれており、その中にはティイ王妃の神殿まで描かれていることからティイ王妃がアマルナに滞在し亡くなったものと考える学者もいます。
この場合、王家の谷KV55からティイ王妃の埋葬に使ったと思われる厨子などが見つかっており、またKV55ではアクエンアテンまたはスメンクカラーと思われるミイラや葬送道具も同時に発見されアマルナを放棄した時期に、
アマルナから王家の谷に運ばれ再埋葬されたものと考えられます。)、
更にティイ王妃の夫アクエンアテンのお父さんであるアメンヘテプ3世も描かれていて、この王様もアマルナに来てアクエンアテンと共同統治していたという学者もいます。
もうひとつの墓、こちらがより重要なのですが、メリラーUという人の墓で2号墓、フヤの墓は1号墓です・・ここには謎の王スメンクカラーが描かれています。
もっとも保存状態が悪いので現在はあまりよく見えませんけど。

 
(メリラーUの墓=2号墓 スメンクカラーとメリトアテンが画かれた壁面写真とイラスト
 
(メリラーUの墓=2号墓 左:上段赤枠部分部分の拡大イラスト、右:現在は失われた王と王妃の名前部分の写真)
このスメンクカラー、アクエンアテンとツタンカーメンの間に統治したと思われている王なのですが、よくわからないというよりほとんどわかっていません。
ただここの壁画からこの王の王妃がメリトアテンというアクエンアテンの長女なのは確かです。
この王を不可解というか摩訶不思議な存在にしているのが、王家の谷のKV55で見つかったミイラとツタンカーメンの遺物に名前が刻まれているネフェルネフェルアテンというこれまた謎の王の存在で、
まずそのネフェルネフェルアテン王の話をするとスメンクカラーと共通の即位名アンクケペルウラーという名前を持っておりツタンカーメンの遺物のひとつに王アクエンアテンとともに、王ネフェルネフェルアテン、王妃メリトアテンと書かれていることから
スメンクカラーと同一人物の男性ファラオという説が成り立ちます。
(ルクソールにあるTT139パイリの墓の壁面には神官パワウの兄弟の落書きが残されています。
ここには、治世3年アンクケペルウラー/ネフェルネフェルウアテン王は、自らの葬祭殿をルクソール西岸に作り、その運営をアメン神官に任せたと書かれています。
この内容が正しければ少なくてもネフェルネフェルウアテン王は存在し、この王はアメン神官団を認めていたことになります。
ただし名前には相変わらずアテンの名前は残っています。
2009年から2010年にかけての調査でネフェルネフェルウアテン王とツカンカーメンが共同統治(または近い時期に統治)していたと思わせるような証拠がシナイ半島で見つかっています。
少なくても、ネフェルネフェルウアテン王が、考えられていたより活動的だったように思えます。)

  
(左からスメンクカラー、アンクケペルウラー×2 ピートリーミュージアム所蔵)
(大王宮跡から見つかった共同統治ステラも興味深い遺物だそうです。)
共同統治ステラについては、最終段階で、王ネフェルネフェルウアテン、王妃アンクエスエンパァアテンとも読める部分があり、アマルナ時代終焉時の混乱と謎を深めます。)
ところが別の遺物にはこの王が女性であることを示す記述があり、よく言われているアクエンアテンの王妃ネフェルティティがネフェルネフェルアテン王になったという意見が正しいと思えたりします。
ところが、KV55で見つかったミイラは男性で王のミイラしかも20歳台前半で、治世の年数(アクエンアテンの治世は17年、ミイラは20歳〜23歳)や子供の年齢(少なくても治世4年には子供がいた)などを
考えるとアクエンアテンではありえないとなり、これがスメンクカラーのミイラ?となってまた最初に逆戻り、迷宮から永久に出られないということになります。
(2010年に発表されたツタンカーメン関連の一連のDNA鑑定のなかで、KV55のミイラの調査され、このミイラの死亡年齢が45歳〜55歳という結果が出ています。
これがほぼ唯一の証拠であったKV55のミイラ=スメンクカラー説は困難な立場になりました。)

(入口から部屋に入った左右のレリーフは、他の墓では、多くの場合被葬者=メリラーUが、アクエンアテンから、財宝を貰う様子が画かれているのです・・・この墓でも、もう1面は、モチーフとしている・・・が、ここでは、王妃が、王に酒を注ぐ様子が画かれています。
モチーフ自体もあまり見かけないものですが、ここでは、王妃とともに3人の王女が画かれています。
このうちの1人が誰か?ということが非常に興味深いです。
というのは、この墓の作られた時期や他のレリーフから言って時期が遅く4人の王女が画かれていても、おかしくありません。
しかも、メリトアテンとアンクエスエンパァアテンの名前はあるのですが、3人目は確認できません。
通常なら、次女メケトアテンなのですが、もしかしたら、メケトアテンが死亡したため書き換えが行われたのか、もともと4女ネフェルネフェルアテンタァシェリトだったのでは?などと想像したくなります。
残った碑文のスペースからは、ネフェルネフェルアテンタァシェリトと入れるのは少々難しいですが。
また、このレリーフそのものが、アクエンアテンの死を示しているのではと“妄想”したくなるような材料が多くあります。2号墓に行く機会がありましたら、注意深く見てください。
この入口付近のレリーフだけでも、1号墓・2号墓は特別です。)


(貴族の墓の説明で追加すると、ガイドの中に、ひとつのチャリオットには王と王妃は一緒に乗らないなどと説明をする人がいるようですが、これは明らかな間違いです。
9号墓マフの墓のレリーフでは王と王妃更に王女1人が同じチャリオットに乗っている様子が彫られています。
さらにここで王と王妃はキスをしています。)




次にアマルナ観光のメインであるアクエンアテン王墓についてですが、ここについては、当然同行のガイドがきっちり説明するとは思いますが、とりあえず。
アクエンアテンの次女メケトアテンを埋葬したと思われている3つの部屋の一番手前の部屋(アルファと呼ばれている部屋です。)の壁は注目すべきものが2つあります。
ひとつは、4人の王女の名前が書かれている後ろに5人目の王女ネフェルネフェルウラーの名前が彫られた後に漆喰で埋められている部分があります。


これはジェフリー・マーティンというイギリス人エジプト学者が王墓を調査していた時に見つけたものですけど、5人目、6人目の王女・・6女はセテペンラーと言います・・この2人はメケトアテンの埋葬のレリーフでも出てこないので既に死亡していたのではと想像できますが、こういうものが見つかるとその可能性が高いといえるかもしれません。

(この時点で6女の名前がないことから、6女が5女より先に亡くなっていると思われます。
前述 メリラーUの墓=2号墓のレリーフで、王女が6人のもの、5人のものがありますが、この作業中に王女が増えたのではなく、6女セテペンラーが死亡した可能性も考えられます。)

こちらの方は、そこそこのガイドであれば説明すると思われますけど、もうひとつはかなりのアマルナ好きでないと話さないと思います。
この部屋と玄室のレリーフにはなんとアテン神の前期名が含まれています。
最初の方で説明しましたが、このアテン神の前期名が出てくるということはアマルナに来て早い段階で装飾が行われたことを示しています。



これのなにが重要かといいますとアクエンアテンの治世のかなり早い段階で玄室の掘削及び装飾は部分的には終了していた。
それにもかかわらずそれそれ以降ほとんど作業が進んでいなかった。
イコールその意思がなかったと考えられます。
王墓の工事というのは貴族の墓などとは比べることができないくらい重要なものでそれが途中で中断など考えられないことです。
ですから、ほぼ作業が完了していたと考えられます。
ただし、もうひとつ考えられるのは中止の意思がなくても玄室内の工事を止めなければいけない理由ができた・・・それがなにか・・・考えられるのがアクエンアテンのお母さんティイ王妃の埋葬です。

石棺の破片などからティイ王妃はここに埋葬されたと考えて問題ないと思いますが、なくなったティイ王妃のため奥まで進める工事を中止してここをティイ王妃の埋葬室に使用したのではと考えることもできます。
その後バタバタと王族が死亡し混乱して新たな王墓をどうするか決まらないうちにアクエンアテンも死亡して結局ティイの隣に埋葬されることになったのかもしれません。
(この王墓での謎のひとつに、呪術的レンガまたはマジックブリックと呼ばれるブロックを収めるための壁龕の話があります。
この壁龕は、アメンヘテプ2世王墓以降の王墓玄室のみに存在するものですが、アクエンアテン王墓では、なぜか玄室ではなくアルファの部屋に作られています。
そのため、これを根拠にアクエンアテンの埋葬された場所がこのアルファの部屋であると主張する人もいます。
なお、この壁龕はN・リーブスの『王家の谷百科』ではトトメス4世王墓KV43から作られ始めたとされていますが、ここでは1代前のアメンヘテプ2世王墓KV35が最初のものとしています。
疑問のある方はアメンヘテプ2世玄室の立体図などをご覧ください。
またツタンカーメン王墓玄室の壁にも装飾を不自然に切り取られた窪みがありますが、それがこの壁龕です。)


下の写真2枚は、アマルナ王墓アルファの部屋。
囲み部分に、修復時に埋められているが、当初ブロックを収めるための壁龕があった。




ここから話すのはまったくの根拠なしの仮説ですが、実はこのアクエンアテン王墓の近くに小さな墓が3つあります。
ここをツアーで見るということはほぼ100%ありませんが、実際行ってみると小さいというのは大きな間違いで、かなり大きいしかも工事途中であるけれど誰が見ても王墓といえる(勢いで話していますが実際には王家の谷KV12のような非王墓はあります。)立派な通路式の墓です。
装飾はありませんが、通常の王墓でいえば井戸の間のすぐ手前まで掘削が完了しプラスター・・漆喰のことですけど、それが塗られていました。

(27〜29号墓のことですが、このうち27・29号墓の工事はかなり進んでいました。
28号墓は入口付近の掘削しか終わっていないにもかかわらず漆喰が塗られており埋葬時期が迫っていたという印象を与えます。)
写真はこち
(このうち、27号墓がツタンカーメンのアマルナにおける墓だと思われています。)
ちなみに王墓の通路に装飾が施されるようになるのはこの時代より後です。
少し話が逸れてしまいましたがティイに墓を譲ったアクエンアテンがこのうちのどれかを自分の墓にと考えてもおかしくないのではと思えるくらい完成度が高いです。

ついでに話すと、王妃ネフェルティティはどうなったかということですけど、少なくても権力の座から落ちたというのはアクエンアテンの石棺これはカイロ博物館の建物西側(入口を入り建物を正面に見て左に進み建物側面の石棺が並ぶ場所)に展示というより
放置されていますが・・その石棺や玄室の装飾を見るかぎり考えられないと思います。
(2013年にアマルナより北デルエルヒニスの石灰岩採石場でネフェルティティの名前と治世16年が含まれる碑文が見つかりました。
これによりアクエンアテンの治世16年まで王妃ネフェルティティが生存していた可能性が高くなりました。
しかし、一方で、ネフェルティティの名前があることから、ネフェルネフェルティティがネフェルネフェルウアテンに改名し王として統治したという意見に反する証拠になります。)

名前や図像が残っていますから、失権した人の名前が重要な場所に残っているということはありないでしょうから。
ネフェルティティのライバルでツタンカーメンの母親でないかネフェルネフェルアテン王は実は彼女ではと言われているキヤと女性がいますが、王墓にも最初に話した貴族の墓にも描かれることはありません。
これがどういうことかは色々な説が成り立ちますが、少なくても公的な部分ではアクエンアテン死亡までネフェルティティが力を持っておりキヤの出る幕はなかったのではと考えられます。



(河合 望氏は、著書『ツタンカーメン 少年王の謎』で、王妃ネフェルティティのシャブティが、この墓から見つかっていることを主な根拠に、王妃も埋葬されたとしている。
この意見は、多くの専門家とも一致しているが、王と同等の権力を有していた王妃の遺物が、石棺の破片どころかシャブティ1体以外まったく見つかないという状況で、それが正しいかは疑問が残ると言わざるをえません。)
(キヤについては、治世11年以降生存が確認できないというものと、治世16年くらいまでは確認できるという資料が存在します。
なぜそういうことが起こるかはは自分のような素人には理解不能です。
大英博物館にある遺物にキヤの名前とアテン神の前期名が書かれているのでアクエンアテンの治世前期から第二夫人の地位は得ていたようです。)
(キヤの名前の痕跡が残る遺物として知られるKV55出土のカノプス容器ですが、最近元の所有者はメリトアテンであるという説が出ています。
キヤの名前という部分がどうなったかはわかりません。)
(→カイロ博物館が3つ、メトロポリタン美術館が1つ持っています。
2014年7月から始まったメトロポリタン展で公開されています。)

(キヤについては、ウィキペディア日本語版に、
ネフェルティティと同一人物の可能性があると記述されていますが、前述のとおり既にアクエンアテン治世前半にキヤの存在が確認できるため、同一人物の可能性は非常に低いと思われます。
2012年7月以前にこの部分は削除されています。)
(2010年にZ・ハワスよりツタンカーメンに関するDNA鑑定結果が発表されたなかで、ツタンカーメンの母親は、父親であるアクエンアテンの実の姉または妹であると発表され、王の娘という称号を持たないキヤもネフェルティティも母親である可能性がほとんど無くなりました。
これによりキヤ=ツタンカーメンの母親という立場をとっていたN・リーブスをはじめ多くの研究者が再検討を強いられそうです。)

(このDNA検査で、アクエンアテンの実の姉または妹とされるアメンヘテプ3世とティイの娘の中で、在アマルナと思わせる証拠があるのは、フヤの墓=1号墓ベケトアテンだけです。)

ということでざっとというかかなり流した形で話をしました。
想像というか妄想に近いものもかなり含まれていますが、とりあえずペラペラと喋りましたので、真実でない部分も話が合わない部分もたくさんあると思います。
ところがアマルナ時代は実際にわからないことが多すぎて話したもの勝ちみたいなところがかなりあります。
だからアマルナが面白く、ピラミッドも神殿もないアマルナに行くことになるのでしょうけど、レリーフの保存状態が悪いとか何もないところといわずに自分で想像しながら楽しんできてください。
エジプトから帰ってきた後に、アマルナに少し興味が出たという人には、『消されたファラオ』(残念ながら廃刊になっているようです。
ただしかなり中古の本が出回っているようなので入手は可能です。)という本をお薦めします。
この本自体も史実に基づいたとは必ずしも言えませんが読み物としてはアクエンアテンとネフェルティティの夢物語風の本などより遥かに面白いです。

主文 2007年8月12日 某サークルイベントで話をした一部、()部分は注釈として追加したものです。


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 『アマルナの楽しみ方』 

青字は、2014年の追加分